自然の掟

 チェロキー族(森林インディアン)の祖父が、小さなリトル・トリーに自然界の掟を話す。
必要なだけしか獲らんこと。鹿を獲る時はな、いっとう立派な奴を獲っちゃならねえ。
小さくてのろまな奴だけ獲るんじゃ。そうすりゃ、残った鹿がもっと強くなっていく。そしてわしらに肉を絶やさず恵んでくれる。ビューマでさえよく分かっている。
 もっとも蜂たちは食べきれねえくらいの密を溜め込む。だから熊とかアライグマ・・・そうそうチェロキーにも盗まれる。人間にもそんなのがおるじゃろうが?使い切れねえくらい貯めこんで、ぶくぶくに太ったのが。そこで取り合いになる。戦争がおっぱじまるんじゃ。必要でもねえのに、ちょっとでも多くふんだくってやろうと、長い話し合いが始まる。
奴らの言い分は、こうやって最初に旗を立てたんだから、おれたちはこうする権利があると、こうなんじゃ。じゃがな、掟を変えるなんてことは誰もできやしねえのよ。

 いまの私たちは自然の恵みを貪りあい、贅沢の限りを尽くしているが、何かに満たされない気持ちをいつも抱いている。自然の掟に従い、足るを知ることが心豊かに過ごせるコツではないだろうか。

未来を考えろ

 世界人口、工業化、汚染、食糧生産、資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来るべき百年以内に地球上の成長は限界点に達するであろう。最も起こる見込みの強い結末は、人口と工業力のかなり突然の制御不可能な減少であろうと、1972年にローマクラブ「人類の危機」レポートは警告を発したが、それから我々は何をしただろうか?
 1650年に5億人だった世界の人口は、その後の200年間で倍になり、さらに次の80年間で倍になり、1995年には58億人近く、と爆発的に膨張している。そして、一人ひとりが「もっと、もっと」と欲望を膨らませ、この限りある地球は瀕死の状態である。
「我々は次のことを知っている。地球が人間に属しているのではなく、人間が地球に属していることを。人間が生命の入り組んだ関係を織ったわけではない。人間はその織物のより糸にすぎないのだ。人間がその織物に対してなすべきことはすべて、自らに対してすることになる。」(アメリカインディアンのシアトル首長)
「常に未来の世代のことを考えて生きることだ。自分の行動は自分の子どもの子供またその子供にどんな影響を及ぼすのか」(北米先住民アベナキ族J・ブルチャック)

自分ひとりくらいなら・・・

 ハーディン著『共有地の悲劇』は暗示的だ。昔、十人の農民が共有の牧草地に十頭ずつ羊を放牧し、一頭当り百ポンドの利益を上げていた。これ以上羊の数が増えると一頭当たりの牧草が足らなくなって羊毛の質が落ちてしまい、全体で百頭がちょうどよい数だった。
 ところが産業革命で羊毛の需要が急増したので、羊を一頭でも多く育てれば利益が増えるとばかりに、農民の一人が「自分一人ぐらいなら、あと、二、三頭ぐらい増やしても牧草は大丈夫だろう」と十二頭放牧した。そのために一頭あたりの牧草が減って、その年の羊毛は一頭あたり90ポンドの利益しか上げられなかった。たった二頭増やしただけで、全体の利益は820ポンド減ったが、この農民だけは80ポンド利益が増えた。
 翌春には、面白くない他の9人も12頭ずつ放牧した。一頭当たりの牧草がさらに減ったので、その年の羊毛は一頭当たり80ポンドの利益しかあげられなかった。各自が手にした儲けは40ポンドも減り、根まで食べつくされた牧草地は駄目になってしまった。
こんな話は、空き缶のポイ捨てから地球環境破壊の問題や資源の使い方、企業の身勝手な行動など、いくらでも挙げることができる。利己的な人間に救いはないのだろうか。